IT・システム判例メモ

弁護士 伊藤雅浩が,システム開発,ソフトウェア,ネットなどのIT紛争に関する裁判例を紹介します。

事業譲渡に伴うシステムの仕様書等の引渡義務 東京地判令2.2.28(平29ワ25469)

SaaS事業の事業譲渡において、当該SaaSシステムに関するドキュメントの引渡義務の有無が争われた事例。

事案の概要

Yが運営していたSaaS事業(本件事業)をXに譲渡することとなり、XY間で事業譲渡契約(本件事業譲渡契約)が締結された。譲渡対価は1.5億円だった。

本件事業譲渡契約書にて、譲渡資産には「ソフトウェア一式」が掲げられており、それは本件事業に関するソフトウェア(本件ソフトウェア)と、そのソースコードが含まれることには争いがなく、YからXに対してソースコードの引渡しが行われた。しかし、Xは、「ソフトウェア一式」には、本件ソフトウェアにかかる仕様書、設計書等のドキュメント(本件ドキュメント)が含まれているところ、Yがこれを引き渡すことを怠ったとして、本件事業譲渡契約における義務違反を主張した。

そして、Xは、ソースコードの引渡しを受けたものの、本件ドキュメントを引き渡さないことにより、ソースコードを解析して基本設計等のやり直しが必要になったとして、開発費用等、約6400万円の損害賠償を請求した。

(Xからの請求は、他にも様々な根拠に基づいて行われており、Yからも反訴が提起されているが、ここではすべて割愛する。)

ここで取り上げる争点

  • ドキュメント引渡し義務の有無

Xは、本件事業を継続するうえでは、本件ソフトウェアの修正等が予定されており、そのためには本件ドキュメントが当然必要で、譲渡対象資産に含まれていなかったとしても、信義則上、本件事業を継続して運営するために必要なドキュメントの引渡し義務があると主張していた。

裁判所の判断

まず、裁判所は、以下の理由を掲げて、本件事業譲渡契約に基づいて本件ドキュメントを引き渡す義務を負っていないとした。

  • 本件事業譲渡契約の別紙譲渡資産目録には、「本件ドキュメント」は明記されていない
  • 本件事業譲渡契約によれば、譲渡対象の資産は現状有姿で引き渡すこととなっているから、クロージング日に存在するものに限定されているが、本件ドキュメントがクロージング日に存在していたとは認められない

さらに、Xは、契約上の義務ではないとしても、本件事業譲渡契約に付随する信義則上の義務として、本件ドキュメントを引き渡す義務を負っていたと主張したが、

事業譲渡契約を締結するに際して,譲渡対象となる財産が何かということは当事者間の最大の関心事であることが通常であるところ,上記(1)のとおり,本件ドキュメントは,そもそも作成されて存在していたとは認められず,本件事業譲渡契約による譲渡対象にならないと解されるのである。そうすると,特別の事情の存在が認められない限り,同契約に付随する信義則上の義務として,Yにおいて改めて本件ドキュメントを作成してXへ引き渡す義務を認めることができないというべきである。

(略)

Xにおいて本件事業譲渡契約締結の交渉を担当したCは,同契約の締結前に本件ソフトウェアに係る設計書が存在しないことをY側から聞かされていた(上記(1))にもかかわらず,証拠(証人C)によれば,Xは,Yに対し,同契約の締結前に,本件ソフトウェアに係る設計書や仕様書などの本件ドキュメントの引渡しを求めたことはないことが認められる。また,本件事業譲渡契約の当事者であるXとYとの間では,同契約の締結までに,本件ドキュメントの有無やYからXへの引渡しが検討された形跡すらないのである。しかも,事業譲渡等の企業買収においては,最終の契約締結前に,買収者が対象会社に対する実地調査(デュー・ディリジェンス)を行い,重要な事実等を確認する事例も多いところ,Xは,本件ドキュメントの存在を含む本件ソフトウェアの状況等を確認するための実地調査を行っていないし,これをYに対して求めた形跡もない。それにもかかわらず,本件事業譲渡契約を締結してクロージング日も経過した後に,信義則を根拠として,Yにおいて改めて本件ドキュメントを作成してXへ引き渡すことを求めることは,同契約の当事者としては想定外の負担をYに課するものというほかなく,これを正当化できるだけの特別の事情は,本件全証拠によっても認めることはできないというほかない。

と述べ、デューデリの際にも話題にもなっていないドキュメントを、クロージング後に引き渡すことを求めるべき事情はないとして、信義則上の義務も否定した。

その他のXの請求もすべて退けたのに対し、Yからの反訴請求(保守業務の委託料請求)については認容された。

若干のコメント

裁判所は、契約書に忠実に、譲渡対象資産に、システムのソースコードが含まれるとしても、そこに当然に仕様書等のドキュメントまでは含まれないとして、Xの請求を退けました。

ITサービスのM&Aでは、会社全体の支配権を得るというケースでは株式を購入する形態が多いと思われますが、本件のように、特定の事業だけを引き取るケースでは、事業譲渡の形態をとることも多いでしょう。しかし、事業譲渡の場合、譲渡対象資産・負債、承継対象契約の特定が重要で、本件もそこが問題になりました。

デューデリジェンス(DD)の段階で、ドキュメントがあること、引き渡すことについて交渉されていないと認定されており、譲受人(X)もそこは安易に考えていた可能性があります。確かに、自社サービスとしてシステムを構築し、さらにそれを他人に譲渡するとなれば、ソースコードがあればよいというのではなく、ドキュメントも整備して引渡しすべきだというXの言い分も理解できますが、そうであれば、DDのときにドキュメントの所在を確認し、足りなければクロージングまでに整備することをクロージング条件(CP)とすべきだったのだろうと思われます。