システム開発の契約書を取り交わさないまま設計作業を行った場合におけるベンダーからユーザに対する報酬・損害賠償請求に関する一つの事例を紹介します。
事案の概要
大手ディスカウントショップのEC事業子会社Y(被告)が,開発ベンダX(原告)に対して,EC事業のためのシステム開発を委託しようとしていました。機密保持契約と,開発基本契約の締結にまでは至りましたが,具体的な金額・作業範囲が記された契約書,注文書のやり取りはないまま,ベンダXのエンジニアがユーザYに常駐し,その他多数のSE,プログラマが要件定義・設計作業を実施しました。
しかし,ユーザYはベンダXではなく,別のベンダに委託しようと考えるようになり,他社に接触し始め,結局複数者との入札により業者を決定することにしました。その際のRFP(提案依頼)には,ベンダXが作成した資料に基づいて作成されたものもありました。
結局,ベンダXは入札に参加したものの,ユーザYはベンダX以外の業者を選定しました(ただし,要件定義作業に関わったベンダXのSEはその後も常駐し,その対価はユーザYからベンダXに支払われました。)。ベンダXは,それまでに要した作業の対価である約3800万円の支払いを求めて提訴しました。
ここで取り上げる争点
ベンダXは二つの法律構成によって,請求しています(この種の事案ではだいたいこのような構成が取られます)。
まず,(1)主位的に,契約書の取り交わしはないが,開発契約が成立したことを前提に,ユーザYが一方的に契約廃棄したため,民法648条3項に基づいて損害賠償を請求しています。
さらに(2)予備的に,契約が成立していなくとも,いわゆる契約締結上の過失の法理により,ユーザYに信義則違反があったとして,不法行為に基づく損害賠償を請求しています。
そこで,本件訴訟では,(1)に関し,契約が成立していたのか,(2)に関し,ユーザYに契約準備段階における信義則上の注意義務違反があったか,義務違反があったとすると,その損害額はいくらか,といった点が争点となっています。
裁判所の判断
(契約成否に関して)
裁判所は,作業実施の実態を認めつつも,
- 秘密保持契約締結時点において,システム開発の範囲が明確なっていなかったこと
- 開発範囲が確定したのは,ベンダXとの契約締結拒絶が明確になった後であること
- 機密保持契約,基本契約には,委託業務の範囲は明示されていないこと
- ユーザYは,同時期に他のベンダとも機密保持契約,基本契約を締結していたこと
- 金額については,口頭での見積額が伝えられていただけで具体的な協議がなかったこと
を理由に,システム開発契約が成立していたとは認められないとしました。
(契約締結上の過失に関して)
続いて裁判所は,注意義務違反については,
- ユーザYがベンダXに短期間にシステムを完成させたいと告げて,直ちに機密保持契約を締結したこと
- それを受けたベンダXはプロジェクトマネジャーを2名を投入し,途中からベテランSEを常駐させたこと
- ユーザYは納期に間に合わせるため,要件定義作業と並行して設計業務を進めるよう強く要請し,ベンダXもそれに従って設計作業に着手していたこと
- ユーザYは他社と接触していたことを秘匿し,ベンダXに対しては「社長の稟議を通すため形式的に入札させるだけだから安心しろ」と説明していたこと
- ベンダXは要件定義をほぼ終了させ,基本設計,詳細設計の一部を実施し,成果物をまとめてユーザYに提出したこと
を理由に,
これらの事実関係に照らすと,ユーザYの上記各行為によって,ベンダXがユーザYとの間で,本件システムの開発業務に関する委託契約が締結されることについて強い期待を抱いていたことには相当の理由があるというべき
として,ユーザYはベンダXに対する関係において,「契約準備段階における信義則上の注意義務違反」があるとしました。
さらに損害額については,次のような論理で,1350万円と認定しています。
- 一般に,コンピュータシステムの開発は,設計・製作・運用の3工程から成り,これらの工程にかかる開発の割合はほぼ同程度である
- さらに設計段階は,要件定義,基本設計,詳細設計の3区分から成り,設計段階における角区分の費用割合はほぼ同程度である
- ベンダXが受託する予定のシステム開発費は控えめに見ても1億2千万円である
- ベンダXは要件定義作業をほぼ終了させ,基本設計と詳細設計の一部に着手しており,全工程の9分の1をやや上回る作業工程を終えていた
つまり,1億2000万円の約9分の1で1350万円としています。
なお,法律上の論点として,ユーザYは,契約締結上の過失に基づく損害賠償の場合,損害賠償の範囲は信頼利益に限られるとの主張をしていますが,裁判所は,その主張を退け「作業工程に見合う出来高相当額を賠償すべき義務がある」としています。
若干のコメント
本件でも,具体的な書面がない場合において契約の成立を否定しており,ベンダにとって,書面がないまま作業を進めることには大きなリスクがあることが改めて確認されました(結果的に1350万円の賠償を認めていますが,ベンダの投下した工数には見合っていないと思われます)。
契約締結上の過失が認められるケースは多くなく,本件のような特殊事情においてのみ認められると考えるべきであって,ベンダとしては金額・作業範囲の書かれた書面(簡単なものでもよい)を得たうえで着手すべきだといえるでしょう。
なお,システム開発は,設計・製作・運用が3分の1ずつ均等な費用がかかるのが一般的だ,という話は聞いたことがありませんでした。「本当か?」という気もしますが,極めてシンプルな論理ですので,裁判所にもわかりやすく,場合によってはこの判例を援用して損害を立証する際に使えるかもしません。
さらに,契約締結上の過失による損害賠償の場合,損害賠償を請求する側に落ち度があった場合には,その割合に応じて損害賠償額を減額するということが行われます(過失相殺)。通常は,過失相殺のロジックを用いて妥当な損害賠償額に落ち着かせるのですが,本件では,過失相殺に関しては言及されていません。少なくともユーザがその点を主張すれば,判断が行われたはずなので,ユーザがベンダ側の過失についてあまり主張しなかったのかもしれません。